東京まで77.7マイル

思いつくこと、思い出すこと、思いあぐねていること。それから時どきワイヤーワーク。

ハンドメイドを完全コピー!そこまでやりますか?

f:id:wired1997:20180927195931j:plain

 

ブログの背景があっちこっちに飛んで、わかりにくいかと思います。

ですので、簡単な図を作ってみました。

職の沿革表です。参考にしてください。

f:id:wired1997:20180928214446j:plain

今回は、作家(自)時代と作家(職)時代にまたがる話です。

 

当時、あるブライダル関係のイベントに出展したことがありました。

結婚式に関連する、さまざまなジャンルの商品やサービスが対象となるイベントで、

ウェディングドレス、カトラリー、式場の什器など、

200近いメーカーが出展していました。

要は商談会ですね。

 

日本中から商材を求めて企業のバイヤーや個人が買い付けに来るのですが、

出展料さえ払えば名のあるメーカーに混じって、

法人でもない田舎の工房でもブースを構えることができるのでした。

 

トレード・ショーとも呼ばれていて、

最大規模のものは「東京・インターナショナル・ギフト・ショー」です。

来場者は、4日間で30万を超えるようです。

 

とにかく出展料は中々ですが、

自分で日本中を営業することを考えれば、

この方が効率的なのですね。

 

その場で商談が成り立つ場合はともかく、

頂いた名刺に後日カタログを送ったりして

購入につなげたりするわけです。

 

元々、Wired(私が立ち上げたクラフトのブランドです)は、

ガーデン系の作品づくりでスタートしたので、

フラワーショップや雑貨屋さんをターゲットにしていましたが、

ブライダルマーケットにも需要があるのではないかと考え出展したのでした。

 

出展に際しては、新作を中心に何十かのアイテムを揃えてお客さまを待つのですが、

聞いたこともないブランドなので残念ながらなかなか相手にしてもらえません。

 

当然出展料の回収などほとんど望めませんが、

ブランドの認知のためには必要な投資と割り切る他ほかありません。

 

そんなとき、ある年配の男性が、ある商品に対して細かい質問をしてきました。

名刺にある社名を見る限り、ブライダルとの接点は全く分からなかったのですが、

とにかく社長さんです。

所在地が隣の県だったので、親近感を覚えましたし

「にいちゃん(すでに40を越えていましたが、若く見られたようです)、

 いいもの作ってるね」の一言で、

いい気になってしまった私は、細かなことまで丁寧に説明したのでした。

 

「ほう~」などと言いながら、最後に

「写真を撮っても良いかと」聞いてきました。

 

このような商談会(トレード・ショー)では原則的に撮影は禁止です。

理由は、出展者及び主催者の権利保護ですが、

わざわざ断ってきたというのは、それを知っての上で聞いてきたということです。

 

そっと撮ってくださいと了解すると、

角度を変え、何枚かをカメラに収めたのですが、

結局、発注はしてくれませんでした。

 

翌年、私は企業お抱えの作家(デザイナー)として、

あるガーデンフェアの商談会に出かけました。

出展ではなく、仕入れと市場調査のためでした。

 

端から見て回っていたのですが、

少し先を行っていた会社の上司が興奮して戻ってきました。

「ぱくられてるぞ!」

いきなりで、何のことやらぽかんとしていると、

手に持ったカタログのページをぺらぺらとめくってあるところを指しました。

そこには、なんと以前私が作ったものとほぼ同じものが掲載されていたのでした。

そこは、あの社長さんの会社が出展していたブースで、

以前写真に撮られたものが、あろうことかその会社の商品になっていたのです。

長い商品番号が付いていました。

 

「文句いってきたほうがいいんじゃない」という上司をなだめ、

なにくわぬ顔でそのブースで、その商品に対面しました。

 

そっくりさんでした。見事です。

 

社長さんは私の顔をみても、思い出す風でもありません。

というか、たとえ思い出しても顔には出さないでしょう。

諸々考えても太刀打ちできる相手とは思えませんでした。

撮影を許した私の過失でもあります。

 

正直、本家Wiredの「その作品」は、結局いくつも売れなかったので、

怒りはあまり起きませんでしたが、それにしても凄い世界だと思い知らされました。

 

その後、その「そっくりさん商品」がいくつ売れたのかはわかりません。

 

ハンドメイド作家を目指している皆さま。

ローテクの極みのようなクラフトの世界であっても、

こんな嘘みたいなことが実際にあったということを、

どこか心に留めておいてください。

色々な人がいるのですよ・・・。

 

最後に、そのときの作品です。

f:id:wired1997:20180925202822j:plain

高さは約40センチ。

トップには寄せ植え用に3号鉢が1つ。

中段と下段には12個の極小ポットで、

お客様の持ち帰り用です。中身は多肉。

「円卓の中央に置いてください」という提案でした。

 

それでは、また。

クルマは急に止まれない

f:id:wired1997:20180927195639j:plain

 

一昨日(金))の午後、カミさんが事故に遭ってしまった。

 

信号待ちしているところを後ろから追突されたのだが、

もう少し細かく状況を説明すると、

カミさんの後ろに止まっていた車にほぼノーブレーキで車が突っ込み、

その反動で突っ込まれた車が、突っ込んできたということだった。

 

最初に突っ込まれた車は前後が潰れレッカー移動だったようだが、

カミさんは後ろがべコンと潰れたものの、自走出来たので帰ってきた。

 

いわゆる玉突き事故だが、現場検証は2時間近くかかったようだ。

一般的な事故に比べ当事者が3人なので、

それぞれの関係先に連絡を入れたり、指示を仰いだりとなると、

結構手間がかかるのだろう。

 

翌日(昨日)は念のため病院で診察を受け、

午後は「代車が用意できました」というディーラーで車を替えてきた。

 

事故を起こしてしまった方は夜勤明けだったようで、

一瞬の気の緩みが原因だったようだ。

 

夕方、改めてお詫びの電話をいただいたと思ったら、

さらに夜になって菓子折りを持って丁寧にお詫びに来てくださった。

夕方の電話でのやり取りを隣で聞いていた私は

「きっと、夜になったら来ると思う」と言ったのだが、その通りであった。

 

カミさんがゴネていたからではない。

むしろその逆で「大丈夫だから、心配しないで・・・」と言っていたのだが、

私はその人の気持ちが何となくわかったというか、

私ならきっと謝りに行くだろうと思ったからだった。

 

22年前、私はある事故を起こした。

まだ30代だった。

 

ほぼ毎日通っている道のある交差点に、新たに信号機が付いたのだが、

それが目に入らなかった。

普段乗っている四駆ではなく、その時はカミさんのセダンを運転していたので

座席の高さが全く違ったことも影響したのかもしれないが、要は不注意だった。

 

母が亡くなり、初七日の日だった。

 

急ブレーキを踏んだけど、間に合わなくて最後にコツンと当ててしまったのだ。

 

「私が一方的に悪い」と非を認めていたので、現場検証はすぐに終わった。

幸いというか、200メートルくらい先の次の交差点には交番があり、

現場検証をすませた後の書類は交番ですることになった。

相手は若い男の子2人であった。

外見で判断するのはいけないが、

彼らは調書を書いている間も紙パックのジュースを片手に持ち、

刺したストローでチューチュー飲んでいた。

それでおまわりさんの心証を悪くしたのか、私が完全に悪いのに、

「後でどっかが痛いなんて言うんじゃないぞ」と威勢をつけられて

「はい」と小さく答えていた。

彼らは被害者なのだが、怒られているようで変な感じだった。

 

交番を出ると、運転していた彼が誰かに電話をかけた。

当時はまだ携帯電話が普及する前で、公衆電話である。

少し話した後、私に「出てくれ」と受話器を渡した。

親御さんだとわかったので、とにかくお詫びをしたのだが、

私の話を遮るように

「子供は未成年だから、この話は俺が引き取った。

 あんたと、俺の話だから・・・」と、ドスの効いた声で言ってきた。

話を引き取る?と言うのがよくわからなかったが、

とにかく電話口で、謝るしかなかった。

 

電話を切り、改めて2人に謝って別れ、そのまま私はディーラーに向かった。

私の車はバンパーに少し傷が付いた程度だったので、

修理はともかく保険のお願いをするためである。

ちなみに、相手の車は相当に古い軽自動車で、

どの傷が今回ぶつけたところなのかわからないぐらい、

あちこちへこんでいた。

 

状況を説明し「後で謝りに行きたい」と言ったのだが、

「交差点の事故なんだから、あまり“悪い”と言わないでくれ」とたしなめられ、

後は保険に任せてわざわざ謝りに行く必要はないとも言われた。

はっきり言えば、行かないで欲しいと言うことだった。

 

さらに、交差点の事故は原則「10:0」にならないと言うので

「差額は自分が払うから10:0にして欲しい」とお願いし、

住所を聞いていたので相手の家をゼンリンの地図で教えてもらった。

グーグルマップなどない時代である。

 

暗くなりかけた頃、その家を尋ねた。

 

一軒家で、玄関先にはお花の植え込みがあった。

昼間の電話の相手を想像すると相当緊張していたので、

その花を見たときに、少し安心した記憶がある。

花を愛でる人は心優しい人たちに違いないと思って・・・。

呼び鈴を鳴らし、引き戸を開けると奥に続く長い廊下であった。

 

その一番奥から出て来た人を見たとき、

正直“俺の人生は終わった”と思った。

100キロを超えるであろう体格はともかく、その人は迷彩服を着ていたのだ。

当時、迷彩服をファッションで着る人は皆無だった。

 

無理やり自衛隊の人かもしれないと思おうとしたが、

そうではない事は明白だった。

「ご迷惑をおかけしました」

と言いかけたのと同時ぐらいに

「子供が首が痛いと言ってるから、病院に行かせた。

 おめえの話は聞かないから帰れ」と言われた。

 

そう言いながら事故に関して特別な知識があるようで、

書くのがはばかられるようなことを言われ続けたので、

「俺はこの後この人にどの位むしり取られるんだろうか」

という恐怖と戦いながら、とにかくひたすら謝るしかなかった。

 

どのくらいだったか覚えていないが、

急に「わかった。あんたの誠意は伝わった・・・」

  「悪いようにはしないから、もう帰れ」と言われた。

最初に「そんなもんいらねえ」と返された手土産も受け取ってくれたので、

もう一度頭を下げ、その家を後にした。

 

その家に行ったのはその一回だけで、後は保険屋さんに任せたままだったが、

いつなんどき呼び出しがくるのではと、心の何処かで怯え続けた。

随分経って、保険会社から示談になったとの連絡がハガキで届いた。

 

記載されていた医療費にも驚いたが、

車の修理代は信じられない金額だった・・・。

 

 

追記

暗い話になってしまいました。

ごめんなさい。

なので、ちょっと可笑しかった話を最後に入れます。

 

今回、カミさんが一応病院に行って診察を受けたとき、

「診断書をどうしますか?」と先生が尋ねてきたそうです。

現場検証のときに「診断書を後で出してください」と言われたから

みんな出すものだと思っていたので、

一瞬答えを躊躇したら

「裏社会の人は書かないけどね」と言いながら、

楽しそうにその辺の事情を色々話してくれたそうです。

 

裏社会の人は書かないそうです。

 

ぶつけても、ぶつけられても事故は大変です。

みなさま、どうぞお気をつけくださいませ。

 

それではまた。

 

和歌山の夜

f:id:wired1997:20180922084747j:plain

2015年9月12日、朝早く自宅を出て和歌山に向かった。

 

新幹線から乗り継ぎ、目的地近くの海南駅に着いたのはお昼近くであった。

f:id:wired1997:20180922085943j:plain

駅から少し歩いてその日泊まるところを確認した後、

急いでタクシーで目的地である「秋葉山公園・県民水泳場」に向かった。

 

話を一週間前に戻す。

当時、会社には日本を代表するアスリートが所属していた。

北京オリンピックに出場した選手で、

いわゆるオリンピアン」である。

次のロンドンオリンピックでは残念ながら代表からもれてしまい、

現役(代表クラス)を引退したのだが、国内のレースには参加していた。

 

代表時代は大会やら合宿やらで、会社にいることはほとんどなかったが、

引退後は、ほぼ普通の社員と同じ業務をこなし、

それでも仕事を終えてから練習を継続していた。

引退したとはいえ、日本記録はまだ破られていなかったし、

実技指導や講演など、業務とは関係ない依頼も多かった。

アスリートの頂点を極めたオリンピアンは人気者なのだ。

なので会社の理解もあり、そういった活動も続けていたのだった。

 

そんな彼が、和歌山市で開かれていた「わかやま国体」に出場が決まった。

その時点では「いってらっしゃい」ということだったのだが、

突然「広報部の仕事だ。応援に言ってこい」となった。

 

それにしても大会一週間前である。

行けと言われれば行くだけなのだが、問題は泊まるところである。

幸い会社に旅行部があり、早速手配をお願いしたのだが国体期間中の、

このタイミングでは中々見つからない。

当然といえば当然である。

さすがに日帰りともいかないので、範囲を広げてようやく見つけてもらった。

小さなビジネスホテルの一部屋だけ空いていたという。

 

「すいません、ここなんですけど」と、

担当がネットから引っ張ってきた写真を見せてくれた。

外見は怪しい民宿のようで驚いたが、いかんせんしょうがない。

文句は言えなかった。

 

会場の前でタクシーを降り競技場に向かう道を歩きながら、

すでに現地入りしている彼に電話を入れた。

 

でない。

 

「・・・忙しいのだろう」

 

坂道を登りきって会場の屋内プールのところまで来ると、

案内所が設けてあり、なにやら券を配っていた。

応援の人が全国から来るので、

その券を事前に申し込まないと会場に入れない仕組みのようだった。

自分が応援する選手が出る時間帯だけ入場が許されるようだ。

無用な混雑を避けるためである。

なるほどな。

 

そこで、また彼に電話を入れてみる。

 

でない。

 

「・・・まだ忙しいのだろうか」

もちろん、このぐらいに着くことは事前に知らせてある。

 

とりあえず入場券の手配をしてプラプラしていたら、

午前中の予選結果が張り出されていることに気が付いた。

レースを見るのは初めてで、午前中に予選があることも知らなかった。

予選から見るためには前泊していないと間に合わないが、

彼からは「お昼ぐらいに着けば大丈夫です」と聞いていた。

まあ出場種目はわかっていたので、時間つぶしに彼の名前を探すことにした。

よく見ると決勝レースの時間と組み合わせも出ていたので、

それを見始めた。

 

なぜか、ひと通り見てみたが見つけられなかったので、

もう1度、丁寧に指を添えて確認していった。

 

あれ? 

彼の名前がない。

 

一瞬、彼は招待枠みたいな扱いで、別枠に名前があるのかと思った。

何と言っても彼はオリンピアンである。

しかし、そんな枠はなかった。

 

相変わらず電話が繋がらないので、今度は予選の結果表を見始めた。

何か連絡も取れない不測の事態があったのかと、ちょっと心配しながら・・・。

そして驚くべきことを発見した。

 

書くのは辛いが、彼は決勝に進めなかったのだ。

 

そうこうしているうちに、入場時間がやって来た。

見るべきレースはもうないのだが、このまま帰るわけにもいかない。

そもそも連絡すらついていないのだ。

入ってみると一般観覧席の反対側が選手達の場所で、

国体なので県別にまとまっているようだった。

目をこらすとヘラクレスのような彼が、いるようにも見えたが、

とうとう会場を後にするまで連絡はつかなかった。

 

広報部に異動して来るまで私はある事業部を預かっていたのだが、

彼はそこのメンバーであった。

ちょうど長男と同じ歳ということもあって、とても可愛がっていた。

予選を通らなかったことを叱ったり怒るはずもないことを、

彼は承知しているはずだと思っていたが、なんだか少し寂しかった。

年長者に対して、とても礼儀正しい男である。

それでも電話に出ることができなかったのは、

オリンピアンとしてのプライドだったのだろうか・・・。

 

それにしても「バカヤロー」と思いながら、結局一枚の写真も撮らず、

連絡を取るのも諦めて、着いて直ぐに確認しておいた宿に戻った。

 

外観はともかく、通された部屋を見て、正直このまま帰ろうかと思った。

トイレも洗面所もなく、風呂もない。

畳の部屋だったが、部屋の真ん中あたりには端から端へロープが掛かっていた。

洗濯物を干すためのものらしい。

ビジネスホテルと言っていたが、こういう部屋は初めてだ。

 

「申し訳ないんですが、仕事の都合で急きょ戻ることになりました。

 宿泊料(先払いしてある)はもちろんこっちの都合なので、

 そのまま収めておいてください」と、

下手な言い訳を言って帰るつもりになり、苦労して時刻表を調べたのだが、

いかんせん電車に乗り馴れてないので、終電に間に合うのかがよくわからない。

 

そのうちそれも面倒になってきて、まだ早かったけど夕飯をとりに外に出た。

昼間は気がつかなかったのだが潮の香りがして、ちょっと驚いた。

急な出張だったので、地図などまったく頭に入っていなかったのだ。

そして、少し歩いてみたら思いがけず海に出た。

 

ぼんやり眺めているうちに陽も落ちてきて、

未だ連絡をよこさない“大バカ野郎”に腹を立てていることもバカらしくなってきた。

見渡せば夜の帳が下りた街並みはとても美しく、

大変だった1日の疲れを癒してくれた。

 

こんな日もある。

 

その後、少しして彼は退社したのだが、

辞める前に卓(麻雀)を囲んだときの話を前に書いた。

 

wired1997.hatenablog.com

 

元気で頑張っていると聞く。

なによりだ。

 

追記

帰りの電車で思わず撮った一枚。

f:id:wired1997:20180922085824j:plain

 

それにしても思い出すのは、部屋に戻って自分で布団を敷いた後、

寝転んだ真上に垂れ下がっていたロープの記憶。

あの日は夢を見たのだろうか・・・。

 

伊香保の夜

f:id:wired1997:20180922083717j:plain

 

前回の「大阪の夜」を思いがけず多くの方に読んでいただけたので、

気をよくして今回は「伊香保」です。

伊香保榛名山麓にある温泉地ですが、

ご存知の方も多いのではないかと思います。

 

2014年2月14日、金曜日。

昼過ぎから降り出した雪は勢いを増し、

社内で会議を終えた頃には結構な積雪となっていた。

 

先週も降ったばかりなので「またか」と思いながら、

この後に業者会が控えていたので、

とりあえず現地に向かって車で走り出した。

 

会場は伊香保の老舗旅館で、

宴会後はそのまま泊まって次の日に帰るはずであった。

旅館はどんなにゆっくり行っても会社から20~30分のところなのだが、

この日はすでに幹線道路が渋滞していて、結局1時間近くかけて到着した。

 

ちなみに私が住んでいるのは前橋市で、関東平野の端っこである。

少し走れば榛名山赤城山だけど、雪はほとんど降らないところである。

その日までは。

 

業者会の出席者は50~60人くらいで、雪で来られない人はいないようだった。

みんな、そのうち止むだろうと思っていたのだろう・・・。

私もそう思っていた。

 

宴会が終って、二次会をパスして部屋に戻った。

ほとんどの業者会は大部屋で、このときも5人部屋だった。

次の日は休みを取っていたので、たまにはゆっくり旅館の朝食もいいなと、

起きた後のことを考えたりしながら眠りについた。

 

4時ぐらいだったであろうか、夜明け前である。

寒くて目が覚めた。

私だけでなく、全員が起きてしまったのだ。

 

「なんかさむいですねえ」と言いながら誰かがカーテンを開けると、

外はとんでもないことになっていた。

部屋からは駐車場が見えるのだが、積雪は車の屋根を越えていて、

自分の車がどれだか全く分からない状態だったのだ。

 

そのうち館内放送があり、雪でボイラーが壊れてしまったことを知った。

寒いわけである。

テレビをつけても、状況は全く分からない。

ほとんど全ての道路が通行不能になってしまったので、

報道関係者も取材にいけなかったのだろう。

なので、報道もされない。

 

「これじゃ降りられないねえ」と話していると、また館内放送があった。

「板前さんが出てこられないので、朝食が作れない」と言う。

メシより何より問題は帰れるかどうかなのだが、結局おにぎりが振る舞われた。

 

それを食べながら外を眺めていると、旅館の人が消防のホースのようなもので

玄関先の雪に向かってお湯をまきはじめた。

この宿は源泉を引いているので、ボイラーが止まってもお湯が使えるのだ。

しかし、消防みたいなホースを持ってしても、雪はなかなか解けない。

何もすることがないので、みんなで見ていたが遅々として進まなかった。

 

私は休みを取っていたが、会社は稼働しているので

いくつかの対応を考えなければならなかったが、

現実的に誰一人動ける人がいないようなので、どうにもならない。

除雪が進まず、車が使えないのだ。

雪の重みでガレージがつぶれた社員が何人もいて、その報告も入ってきた。

とにかく誰も出社できないということである。

 

午後近くになっても下(前橋市周辺)の状況は全く分からないし、

そもそも伊香保から降りる道が除雪されたのかも分からない。

「今日は降りられないかもしれない」とみんなで話しながら、

ただごろごろしていてもしょうがないので、

外の雪かきを手伝ったりしているうちに日が暮れてきた。

 

そして、三度目の館内放送があった。

「連泊してください」とのアナウンスであった。

 

「やっぱりそうか」である。

 

そうこうしている内に、夕飯の案内があった。

会場は大広間ではなく、なぜかカラオケルームだった。

「何ももてなしができませんが」と、給仕をする宿の方の言葉であったが、

出していただいたカレーはとてもおいしかった。

 

全員が食べ終わったのを見計らって、業者会の主催者がマイクを取った。

 

「今回、宿の計らいで連泊することになりました。

 御代はいらないということです。

 ありがたいことですが、それではさすがに申し訳ありません。

 ですので、これからこの宿にあるお酒を全部飲んで、

 そのご厚志に応えたいと思います。

 その分の代金はお支払することになるのですが、これは会のほうで出します」

 

もちろん全員賛成である。

 

こうして宴が始まった。

 

閉じ込められた者の連帯感もあったのだろうか、

妙にハイテンションなカラオケは延々と続き、

最後はなんだかわからないけどサライの合唱になった。

よく知らない歌だったのに、何度も歌っているうちに覚えてしまったくらいだ。

 

仕事柄、多くの業者会に出てきたが、

後にも先にもこれ以上楽しい宴会はなかった。

しかし平常を取り戻した後も、このことを誰かに話すことはできなかった。

 

この日の前橋の積雪は73センチ。観測史上初の大雪であった。

 

追記

同室に、食品問屋の社長さんがおられた。

都内から社長さんのところに向かっていたトラックが、

途中で全く身動きが取れなくなってしまった様子だった。

社長さんがドライバーに電話をしてその状況がわかったのだが、

その時ドライバーに言ったこのセリフを聞いて欲しい。

「荷台に行って、どれでもいいからダンボールを開けて好きなものを食べろ。

 ジュースもあるはずだから、それも飲め。

 社長の俺が言ってんだから絶対遠慮なんかするなよ」

外の雪を溶かすほどの熱い言葉だった。

 

大阪の夜

f:id:wired1997:20180922083819j:plain

 

1度だけ、大阪に泊まったことがある。

なので、このタイトルで書けるのは今回だけかもしれない。

仕事を終えた後、同僚と居酒屋で飲み、ビジネスホテルに帰る途中での話。

 

まだ行き交う人が大勢いる道を並んで歩いていると、

後ろのほうから「チャリン・チャリン」と自転車が近づいてくる音がした。

道を開けるようにすると、その横を二人乗りした若いカップルが通り過ぎていった。

 

少し歩くと道をふさぐように人だかりができている。

15人ぐらい、いただろうか。

 

近づいて中を覗き込むと、中心に先ほどの若いカップルが並んで正座をしていた。

いわゆる土下さの状態である。

そして、その正面には中腰のおじちゃんがいて、

なんだか説教しているようだった。

緊迫しているような状況にも見えるのだが、

不思議と空気に鋭さは感じられなかった。

 

アスファルトに正座している二人は、

下を向いたままどちらともなく「すいません」と繰り返していた。

何が「すいません」なのかはわからないけど、

どうみても自転車がぶつかったようではなさそうだった。

何度か「すいません」を聞いたあと、

おじちゃんが言った台詞がすごかった。

 

「だから、なにがチャリン・チャリンやねん」

 

これだけ。

 

すると、また二人は

「すいません」を繰り返し、

おじちゃんんは

「だから、なにがチャリン・チャリンやねん」と返していく。

どうやらこれを三人でずっと繰り返しているようだった。

 

おじちゃんは何も要求していないが、二人が立ち去ることを許さない。

こんくらべのような状況である。

 

見ている人たちも乱暴な展開にならないことを承知しているかのようで、

楽しんでいるようにもみえる。

二人には悪いが、まさにマンガか漫才を見ているようだった。

関東だったら決してこんな展開にはならないだろう。

 

次の日の朝が早かったのでオチを見届けられなかったが、

酔ってた勢いもあって、ホテルに着くまで二人で声がかれるまで言い続けた。

「だから、なにがチャリン・チャリンやねん」・・・

 

いつかまた、大阪に行ってみたくなった。

 

追記

私のつたない記事を読んでくださっている方々の中にも、

今回の「平成30年7月豪雨」で、被害に遭われた方がおられます。

一日も早く復旧がかないますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

なんちゃってガーデナー vs 園芸爺さん

f:id:wired1997:20180919072734j:plain

 

薬局時代の話です。

 

ある時、花屋に務めていた友達に

ミニバラの苗を20鉢くらいもらったことがありました。

うどんこ病か何かが出てしまったようで、内緒で持ってきてくれたのです。

基本、こんな場合は商品として出せないので、廃棄処分にするようです。

 

当時、私がやっていた薬局の店頭はティッシュペーパーやトイレットペーパー、

さらには洗剤類の定番置場から植物置場になりつつあった頃で、

お客様からは「花も売るんですか?」と言われていました。

もちろん販売目的ではなく飾ってあるだけでしたが、

当時の写真をみると花屋にしか見えない店先になっていたのです。

 

植物を育てることに夢中になっていた私は、

「捨てられるのは可哀想だから」という理由で、

ひと苗ずつテラコッタ鉢に植え替え、

それを飾る置き台まで自作して悦に入ってました。

 

ある日、店先に並べてあるミニバラを近所のお爺ちゃんが見ていたので、

「キレイにしてるね」とでも言ってくれるのかと思い、店頭に出たのでした。

買い物に来たのではなく散歩の途中という感じです。

 

お爺ちゃんの家は店から100メートル足らずのところにあって、

いわゆる鉄筋コンクリート造りの豪邸でした。

高い塀の上からうかがえる庭には、よく手入れが行き届いた植木の他に、

ものすごい数の盆栽があり、2階のバルコニーも植木だらけでした。

すでに退職されていたようでしたが、悠々自適を絵に描いたような生活ぶりです。

 

褒めてくれるのかと思っていた私は、

驚くべきことに、全く逆のことを言われてしまったのです。

 

ある赤いバラを指差して

「この赤は本当の色じゃないね。これはただ咲いてるだけだ・・・」

ホントウの色?ウソの色?そんなのがあるのか?

 

いきなりだったので、顔には出せないけれどムカッときたところへすかさず

「消毒はどうしてるの?」とたたみ込んできました。

 

ここで反撃しないとやられっぱなしなので

「酢をやってます」と答えた。

マツだかツツジだか知らないけれど、庭いじりの好きな盆栽爺さんなんかに

負けるわけにはいきません。

実は何日か前にガーデン雑誌で読んだ、とある記事を思いだしたのです。

従来からある消毒薬の弊害に比べてなんちゃらかんちゃらとあったので、

「お爺ちゃん、酢なんて知らないでしょう!」みたいな言い方で返したのです。

 

お爺ちゃんの反応は、素早く静かでした。

「酢もいいけど、新芽と枝では希釈倍率を変えてあげないと行けないから、

 大変だろ?」

 

私の付け焼き刃は脆くも崩れて返事もできません。

雑誌にはそんなことまで書いてなかったし、

正直なところ恥ずかしくなってきました。

脱帽です。レベルが違ったのです。

 

なんちゃってガーデナーが何も言い返せないでいると、

「後で植え替えてやるから」と言って帰ってしまいました。

ものの10分もしないで、今度は車で乗り付け、

全てのミニバラの鉢をトランクに積み、持って行ってしまいました。

あっという間です。

 

何日かして見事に植え替えられたミニバラが届いたのですが、

「水やりしてみたらちょっと気になったから、

 土も全部入れ替えといたよ」と言われ、

「これも使いなさい」と、

使いかけだったけど石灰硫黄合剤のボトルをいただきました。

 

いま思うと、へっぽこガーデナーを見かねて声をかけてくれたのでしょうけれど、

植物を愛おしむ気持ちだけは伝わっていたのかなと思っています。

 

それにしても、ここまで出来る人は滅多にいません。

うんちくだけの人はごまんといますが、頼まれてもいないアドバイスをするなら、

このぐらいの覚悟を持ってしなさいという教えだったのでしょうか。

お爺ちゃんはあなどれません。

 

「もしかしたらクラフトで食べていけるかもしれない」と思わせてくれた一言

 

f:id:wired1997:20180919075838j:plain

 

暇な薬局をやっていた頃、

何気なくはじめたワイヤーワークが面白く、

だんだん深みにはまっていった。

 

元々は、店を飾り付ける手段として所狭しと植物を置いていたのだが、

気に入った鉢が手に入らないのが悩みの種だった。

植物の希少性にはあまり興味はなく、それよりは器を楽しみたかったのだ。

 

洋書で見る鉢はどこに行けば買えるのかもわからなかったし、

そもそもべらぼうに高かった。

数百円で買える普通の駄温鉢と同じ大きさのものが、

イタリア製ハンドメイド・テラコッタとなると、

なんと15倍から20倍の値段だったのだから、

今考えると驚きである。

 

ウッドプランターも高価だった。

 

なければ作ればいいと、最初は木製のプランターに挑戦したけれど、

技術がないのでなかなか思うようなものができなかった。

真四角のモノはともかく、角度のあるものを作るためには、

技術と道具が必要だと思い知らされたのだ。

それでも、最後の方では真四角のプランターの上部に

ワイヤーで装飾を施したりしてなんとなく満足していた。

 

結局、木はダメだと思って諦めたのだが、

とりあえずいっぱいあったワイヤーで何とかならないかと考えたのが、

私のワイヤーワークの原点である。

 

鉢を入れる器ではなく、鉢そのものを作ろとしたわけだが、

何と言ってもワイヤーは線である。

どう作っても隙間だらけになってしまう。

問題は土で、土がこぼれてしまったら器の用を成さないのだ。

 

編んだり、叩いたり(線を面にするため)してみたけれど、

最後は別の素材を組み合わせることでとりあえずは解決した。

 

当時、最も多く手がけていたのは自立するものではなくハンギングタイプだった。

理由は、植物の器だから植え込んだ後は当然水やりが必要であるが、

自立タイプに合わせた受け(皿)が作れなかったからだ。

ワイヤーで作った器では土がこぼれるだけでなく、

水もほぼストレートに出てしまう。

「水やり後、よ~く水が切れるのを確認してから部屋に戻しましょう」

などと言われても、そんな面倒なものは誰も使わない。

インドアで使いたかったら、やはり受け皿は必須である。

 

実は受け皿になるものはいろいろあるのだが、

素材感が合わないとしっくりこないものだ。

 

なのでインドアは諦め、アウトロケを前提にいろいろ考えていた。

自分が作ったものが、どこにどう置かれたらいいだろうと考えるのは楽しいものだ。

そして行き着いたのがベランダだった。

ベランダはインとアウトの境界みたいなところで、中途半端な場所である。

洗濯物を取り込んだら何もないみたいなところだ。

そんなところだから、ゆらゆらと中空に植物があったら、

もっといい空間になるのかなと考えたのだった。

そんなことを考えながら、何百もの器を作った。

もちろん全くの趣味である。

 

そうこうしているうちに、針金細工の教室を始めた。

 

薬局の一角を使っての教室だけど、生徒さんの数は順調に伸びて行った。

利益を全く求めなかったので、通いやすかったのだと思う。

 

ある時、背筋のピンとした女性が「新聞記事を見た」といって入会して下さった。

通いだしてから、程なくして

「実は、私“こういうことをしています”」と言って、一枚の名刺を差し出した。

名前の下に「英国王立園芸協会日本支部 ハンギングバスケットマスター」とある。

組織の頭に「世界なんとか」なんてあったらだいたい胡散臭いし、

英国王立なんていかにも怪しいと思った・・・。

お恥ずかしい話だが、「ハンギングバスケット」というのも知らなかった。

まあ、知らずに作っていたのだが・・・。

 

お話を伺ったら、

「ガーデンコンテストに出す作品を作るためには器から考えるのですが、

 思うようなものが手に入らない。

 既製品では差別化できないし、鉄工所に頼んだこともあるが、

 やたら頑丈だけど繊細さがない。

 ちょうど新聞で教室のことを知って、

 それなら自分で作れるようになるかと思い通ってみたが、

 相応の大きさのものを作るのは難しいとわかった。

 なので、ひとつ作っていただくことはできませんか?」

ということだった。

 

後で調べて己の不明を恥じたが、英国王立園芸協会とは権威ある組織であった。

 

彼女自身も非常に立派な方で、その上、とても謙虚であった。

後に、某殿下のお庭のハンギングを担当されていたことも知ったが、

それを言っても鼻にかけることは全くなかった。

 

彼女は教室に通いながら私の力量を見極めた時点で、オーダーを出したのだった。

 

デザインイメージはすでに彼女の中にあって、それを具体化するだけだったが、

「やらせてください」とオーダーを受けた。

 

想像もしていなかったが、これが私の初仕事であった。

 

期日はだいぶ先だったので、それには手をつけず、

「自分がコンテストに臨むとしたらこんな器がいいな」と、

別のものを作り始めた。

出来上がりイメージが1メートル近い、初めての大作である。

 

当時作っていたものは手のひらに乗る程度の小さなものが中心で、

少しずつ大きなものに挑戦していた時期だった。

ワイヤーが太くなるに連れて、当然難易度は上がって行く。

オーダーをいただいたものは、今まで作ったこともないサイズで、

使うワイヤーも太くしないと強度が保てない。

なので、そのためのエクササイズも兼ねていたのだ。

だとしても、いきなり1メートルは無謀な挑戦でもあったが作り続けた。

 

オーダーを入れた後も先生は教室に通って下さったが、

自分が頼んだものは一向に作られる気配がなく、

別のハンギングが出来上がって行く過程を黙って見ていた。

 

その後、ふたつの作品はほとんど同時に出来上がり、

オーダーして下さったものは、幸いとても気に入っていただけた。

と同時に、私が作ったバスケットを見てこう言って下さった。

 

「ハンギングの本場はイギリスです。何度も行っていますが、

 こういうバスケットは見たことがありません。

 これも譲っていただけませんか?」

 

私にとっては、これ以上の褒め言葉はなかった。

 

The one and only  (唯一無二)

 

薬局を閉めようかと本気で考え、次の道をどうしようかと真剣に悩んでいたときだ。

誰に話しても「クラフトで食えるわけないだろ!」と相手にされなかったが、

もしかしたらと、背中を押してくれた一言であった。

 

 

ブログを書き始めて、作家志望の人がたくさんいることを知った。

それを職業にするのかどうかはともかく、応援していきたいと思う。

お役に立てるかどうかわからないけど、少しずつ書いていきますね。

 

 

追記

ハンギングバスケットの先生ですが、近年「国際バラとガーデニングショー」の

吊型バスケット部門で最優秀賞を連続受賞するなど、ますますご活躍中です。

いつか機会があれば、その素晴らしい作品をご紹介したいと思います。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございます。